第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers(その4): Cal State Hayward時代の人々

 

本稿第138回「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers(その3)」の続きです。留学ではキャンパス・ライフ以外にも近隣コミュニティーに住む人々と交流しその国の文化を学ぶ機会もあります。前回述べたように、California State College at Hayward(略称Cal State Hayward)は典型的なcommuter’s schoolで、学生は周辺コミュニティーで暮らします。(*1)1969年4月からの約3年間、筆者自身多くの人々との交流を通し、多民族、多文化、多言語の競争社会で互いを尊重しつつ上手に生き抜く術を身につけることができました。印象に残る何人かを紹介します。

1969年4月にCastro Valleyの下宿(boarding house)に落ち着き、Cal State Haywardに通い始めて2ヶ月、Spring Quarterの終盤の6月初旬に手元の資金はかなり乏しくなりました。当時は留学生も夏休み期間中にfull time jobを持つことが許されており、新聞の雇用欄を見て仕事を探し始めることにしました。そんなある日、下宿のオーナーの娘さんがアルバイト先の介護ホーム(nursing home)で雑役の仕事があると教えてくれました。その日のうちに連絡し、面接を受けて採用され、翌日から始めることになりました。3食賄い付きの住み込みで週給50ドルです。これで新学期までに500ドルの学費を蓄えることができます。

下宿に帰ってオーナーたちにお礼を言い、同日の夜に下宿を引き払って引越しました。それは、同じCastro ValleyにあるFern Lodgeというクリスチャン・サイエンス系の施設です。Webサイトには2019年で創立50年とあり、筆者が働いたのは設立直後ということになります。現在の施設はかなり充実しているようですが、当時は住み込み従業員の住まいとしての小さなトレーラーハウス(trailer)、そして食事、休憩のためのキッチン内の小さなテーブルが用意されていただけでした。でも、とても温かい雰囲気が漂っていました。

朝7時に作業場にある業務用洗濯機2台と業務用乾燥機2台を回し、シーツ、枕カバー、オムツ、パジャマなどを洗って乾燥させ、綺麗に畳みます。その作業の後は介護棟のトイレ、浴室、フロアの清掃です。最初は筆者と中年のアメリカ人2人で行なっていましたが、一通りの仕事を覚えてしまった筆者が、洗濯機と乾燥機が動いている間に並行して他の仕事も済ませるようになると、オーナーのMr.Coxは、それを見て中年のアメリカ人を解雇してしまいました。気の毒に思いましたが、筆者にはどうすることもできませんでした。

1ヶ月もすると、すっかり仕事に慣れ、午前中に仕事を済ませ、午後はトレーラーハウスでたっぷり勉強できるようになりました。勤務時間外でも、トイレが詰まったり、電球が切れたりすると処理してあげました。やがてMr.Coxからは倉庫の鍵を託されるほどの信頼を得るようになり、入居者(residents)、支配人(manager)、看護士(nurses)、コック(cooks)、庭師(gardeners)、出入業者ともとても仲良くなりました。Beautyという真っ黒な大型犬がおり、庭師が芝刈り機で芝を刈ると大喜びで庭を駆け回っていたのが思い出されます。

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)(食料庫の前でMr.Coxと筆者)

 

仕事以外の接点も増えてきました。アメリカ人は信頼関係が持てる人を自宅に招きます。Cox夫妻、また、名前を忘れてしまいましたが、主任看護士(head nurse)の家にも招かれ、同年代の子供さん達と仲良くなり、休日にはあちこち遊びに出かけました。入居者は40名程。真夏の夕方にはあちこちの木陰に置かれたベンチに座り、もの思いに耽る何人もの姿を見掛けました。話しかけると、それまでの自分の人生をとうとうと話してくれました。鮮明に覚えているのは、ある日の昼時、入居者と筆者ら従業員ら全員が食堂に集まり、テレビの前に釘付けになって人類初の月面着陸の様子をライブで見たことです。“Isn’t that amazing!”何人かの入居者の口から漏れました。彼らが生まれたのは1900年前後、やっと飛行機が飛び始めた頃、人生を投影しながら自ずと出た感想なのでしょう。

断片的でぼんやりとした記憶しかありませんが、クリスチャン・サイエンスとは無関係な筆者を分け隔てなく温かく受け入れてくれたことだけは確かです。決して忘れません。同じ頃、Castro Valleyに隣接するSan Lorenzo市の日系キリスト教会の礼拝に出席するようになりました。2世や3世の為の英語礼拝と1世の為の日本語礼拝があり、そこで、元日本語主任牧師の福田先生夫妻に出会いました。福田先生は、出身の島根県訛りを残し、(*2)暖かい響きの日本語で訥々と話し、寡黙で温厚な老紳士でした。反対に、福田夫人は気さくで話し好き、阿吽の呼吸で福田先生の話しの隙間を埋めていました。

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)
(前方は福田先生と後方は福田夫人)

 

老夫妻はポルトガル系アメリカ人が所有する貸家に住み、これぞ聖職者と思わせる質素な生活を送っていました。筆者は何度も食事に招かれ、California州の日系社会について、特に第二次世界大戦中と前後の苦い体験については細部に至り聞かせてもらいました。勿論、聖書の話しも忘れません。筆者一人を相手に何気なく短くサラッと話してくれました。それにしても、夫人のあの和洋折衷の手料理、California Rose米との食べ合わせは絶妙で、今でも忘れることのできない味です。(*3)食事の前には決まって「鈴木兄弟が無事博士号をとって日本に帰れますように!」と祈ってくれました。福田夫妻から質実剛健と心の豊かさという大切なことを学びました。

1970年が明けて1月、Winter Quarterが始まって間もなくの頃、Cal State Haywardでアジア系アメリカ人が中心になって設立したAsian American Culture Centerから、Japanese language coursesを設置したいので教えてみないかとの誘いを受けました。Chinese Americans、Japanese Americans、Philippino Americansが主体の公認組織で、Chinese Americanでsociology master’s programに在籍するLee君が取りまとめ役をしていました。

なんと、筆者の日本の大学で修士号を取得していたことが決め手になり、Department of Foreign LanguagesのTA(助手)として採用されたのです。アメリカの大学院英米文学科の入学志願書では認められなかった日本の英米文学修士号が、日本語を教えるTA(助手)の資格として認められたのですから驚きです。「捨てる神あれば拾う神あり」です。これを皮切りに、日本語教員としての経歴が1978年まで続き、結局、アメリカ留学中の学費と生活費を全額賄ってくれたのです。LSUやUCSBで掛かった費用を相殺しても尚余りあるほど。何しろ貯金まで出来たのですから。(*4)

かくして、1970年のSpring QuarterにJapaneseコースが開設されました。正式名称はElementary Japaneseです。せいぜい10名位だろうと思いつつ教室に行ってみると、外国語用の小教室には入りきれないほどの大勢の学生が詰め掛け、当日は急遽大部屋に移動し、最初の授業を済ませました。大盛況です!Asian American Culture Centerの幹部が教務担当理事に掛け合い、時間帯を変えてもう1クラス増設されることになりました。Elementary Japanese Section 1とElementary Japanese Section 2という名称に改められ、筆者の手元に残るSection 2の履修者名簿には24名の登録が確認できることから、Section 1にも同数の履修者登録があったものと思われます。初日に詰め掛けた人数は少なくとも50名前後であったことになります。

1970年Spring Quarterのコース発足時には、当局は十分な事前リサーチもせず、導入コースとしてElementary Japaneseを一つ設置しておけば済むだろうくらいに思っていたのかもしれません。しかし、それは見事に外れ、導入コースを取った多くの学生からその先のコースが欲しいとの要望が寄せられ、それに応えてElementary Japanese II、Elementary Japanese Ⅲ、さらに、Japanese Independent Studiesまでが設置されることになったのです。そして、1年後の1971年からその翌年1972年に掛けて、Elementary Japanese I、Elementary Japanese II、Elementary Japanese Ⅲ、Japanese Independent StudiesのJapanese language programがCal State Haywardのカリキュラムとして定着していきます。できればElementary Japanese、Intermediate Japanese、Advanced Japaneseという名称が欲しかったのですが、残念ながら、筆者の置かれたTAという立場ではそこまでが精一杯でした。

これらのJapanese Coursesを教えながら、筆者は、前回に述べたような英文学の授業を履修するという、教員と学生の二足のわらじで、朝から晩までCal State Haywardのキャンパスで過ごす日々が続きました。それがregular quartersのみならずSummer quarterもそうであったために、1年中キャンパスにいることになりました。

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)(1971年Cal State HaywardのSummer Quarter、事務棟前にて、オフィスにて、履修者と話す筆者)

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)
(筆者担当のCal State HaywardのElementary JapaneseとIndependent Study履修者名簿)

これらJapanese coursesを立ち上げた原動力は何と言っても日系3世です。1970年Spring Quarterの登録者半分が日系3世で占められました。筆者とほぼ同年輩で、第二次世界大戦中かその直後に生まれた人達でした。終戦後の小・中学生時代には日本人であることを隠そうとする意識に勝てず、日本語や日本文化を避けるかのように思春期を過ごし、同居する日本語モノリンガルの1世とはあまり会話がなかったと異口同音に後悔していました。物心つくようになってMartin Luther King牧師の運動に啓発され、自分のルーツを誇りidentityの確立に目覚めたと述べていました。曰く、

“I want to talk more with Jiichan and Baachan in Japanese. I want to visit their hometowns to find out more about them.”

Asian American Culture Centerの活動に参加する日系3世の殆どがJapaneseを履修しており、その縁で彼らが所属するアメリカ日系キリスト教会や仏教会の祭りやバザーなどの諸行事に参加し、1世や2世と話す機会が増えました。最初に1世がアメリカ本土に来ると収容されたSan Francisco湾に浮かぶAngel Island、そして、第二次世界大戦中の収容所での屈辱的な体験を聴きながら色々考えさせられました。San FranciscoのJapan Townで3世により結成されたばかりの「気持ちの会」の行事で、1世の日本語を英語に、3世の英語を日本語に通訳したりしました。

1968年から1969年の間、アメリカを広範囲に移動しても日本車を殆ど見かけませんでした。空前の和食ブームの現在では想像できませんが、醤油さえ中国製のsoy sauceは手に入っても、日本の醤油などは手に入りませんでした。California州でさえ日本料理店がある町は稀という時代です。日本の自動車をはじめ日本の工業製品や食品がアメリカで売れるようになったのは、アメリカの日系社会に負うところが大であると思っています。Cal State Haywardの日系3世の多くは、当時売り出したDatsun 511(日産ブルーバード)やToyotaのCoronaに乗っていました。

すなわち、Japanese coursesに集まったように、自分のidentityを確かめるが如く日本車にも集まったのです。日本車がアメリカの道路を埋めるようになったのはその品質の高さもありますが、当初はこうした日系人、特に、3世のパワーによるところが多かったのではと思っています。何となら、その後3世達はアメリカ社会のビジネス、政治、農業、医療、教育、法曹、中枢に進出し、活躍するようになるからです。ちなみに、日系社会にはアメリカを「父」、日本を「母」とする考え方があり、(*5)当時の日系人の家では1台目の自家用車はアメリカ車で2台目は日本車を所有していたケースが多かったのもそうした考えが表象された一例かもしれません。筆者は、同年輩の日系3世の日本語履修者から、日系社会が体験してきたこと(Japanese American experience)を学びました。

また、第二次世界大戦前に日本に教育を受けに帰った日系2世の中に、日本で結婚し、子供をもうけて戦後間もなくしてアメリカに帰って来た人達がいます。殆どが男性で帰米2世と称されますが、日本語と英語のバイリンガルが多く、その子供達の日系3世は、小さい時に日本で育ったことから日本文化への愛着が強く、柔道、剣道、空手、茶道、華道、日本舞踊に精通する人達が多く見受けられました。1971年12月30日、そのうちの一軒に招かれ、真夜中に短波放送で紅白歌合戦を聞いた事が忘れられません。日系社会にも一括りでは語れない多様性が有るのです。(*6)

日本語クラスは様々なethnic groupsの学生が履修しました。1970年代のアメリカはethnic identityへの意識が高く、中国系アメリカは“I’m Chinese.”イタリア系は“I’m Italian.”ユダヤ系は“I’m Jewish.” “I’m half Irish and half Polish.”などなど、家系を何世代か遡って言い始めたのもこの頃です。筆者も“I’m Japanese-Japanese.”と、日本から来た日本人であることを伝えました。(*7)

第129回「“The Five Pennies”「五つの銅貨」(1959年)」で紹介したSusan Gordonはユダヤ系で、筆者の親友の一人になるJack Wilsonは、父方がスコットランド系で母方がフランス系でした。

筆者自身は、履修者と同じ学生という身分であり、あまり年が離れていないことから、Japanese coursesを離れれば非常に仲の良い友達になり、家によく招かれました。その内の一人がJack Wilsonです。Cal State Haywardの柔道部と空手部に属し、1970年の夏に日本で開かれた万博に行って、日本にぞっこん惚れ込んで帰ってきました。直後のFall QuarterにElementary Japanese1を、その後IIとⅢを履修し、Independent Studyも取りました。専攻はjournalism、旅行が好きでtravel journalistになりたいと言っていました。

当時、East Oaklandは、New YorkのHarlemやLos AngelesのWatt地区に並び、犯罪が多発するゲットー(Yiddish語ghettoに由来、複数形ghettoes)として恐れられていました。East Oaklandは、African Americansの急進的活動組織Black Panther Partyの発祥地で、設立者のHuey NewtonBobby Sealeらが住んでいました。Wilson家はそうしたEast Oakland 100th Avenueの戸建に住んでいました。もっぱら白人の労働者階級の住む住宅街であったものが、いつしかもっぱらアフリカ系アメリカ人が住む住宅街になり、1970年の100th AvenueではWilson家が唯一の白人一家になりました。早くに父親に先立たれ、カソリック系小学校のスペイン語の専任教員をして生計を支える母親のMrs. Wilson、痴呆症を患った祖母、Cal State Hayward生のJackと一歳年下のDaveの4人家族でした。

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)(2020年のEast Oakland, 100th Avenueの写真.Google Mapより)

 

週末になるとこの家にJackとDaveの竹馬の友が集まりました。かつて100thAvenueに住んで居たという面々です。高校を出て保険外交員として働く、Clark Gableバリの2枚目Big Jim、背が高くがっちりしたUC Berkeley生のフィリピン系アメリカ人Arthur、Cal State Hayward生で甲高い笑い声が特徴のSmall Jim、Merritt College(*8)で測量を勉強して測量士になったポーランド系アメリカ人のDave、すらっと背が高く、ニヒルで知的なイケメンのダンサーのJeff。Los Angelesに住んでいるために時々しか姿を見せませんでしたが、8分の1ナバホ族の血を引いていることを誇りとしていました。ネバダの砂漠の真昼間、灼熱の太陽に向かい静かに漏らした一言が印象的でした。“I love to be warm. I hate to be cold.”

Mrs. Wilsonは、筆者やこれら自称“100th Avenue Kids”を温かく迎えてくれました。息子たちがどこかに出かけるよりも、友達が家に来てくれた方が安心だったからでしょう。筆者はとりわけよくしてもらい、Thanksgiving dinnerやChristmas dinnerにも招かれました。筆者だけではなく、Cal State Haywardや近隣の大学に通う日本人留学生も招いてくれました。日本語の全授業を取り終えてしまったJackにとっては日本語を話す機会に、日本人留学生にとってはここに集まるgood old American boysと英語を話す機会になったのです。

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)
(1979年で筆者と“100th Avenue Kids”とのreunion. FremontのWilson家にて)

 

当時のSan Franciscoはヒッピー文化の中心地でしたが、Jackは一風変わっていて、1世代前のElvis PresleyやClint Eastwood(*9)の西部劇が大好きで、Napa Valley、Monterey、Carmelなどの海沿いの小さな町やNevada州やArizona州などの砂漠にある小さな町に案内してくれました。また、下火になりつつあったMLBが好きで毎年野球カードを集め、San Francisco Giants とOakland Athletics(A’s)の試合を見に行きました。

 

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)(当時訪れたSierra山脈近辺の昔の町)

 

上述したようにEast Oaklandは危険だと恐れられていましたが、昼夜を問わずWilson家には数え切れない程足を運んだにもかかわらず、危険に遭遇したことは一度もありません。East Oaklandを縦に走るメイン・ストリートのEast 14th Street界隈も何度も歩きました。人々はとても親切で、service(gas)stations、mom & pop grocery stores、hamburger shops、drug stores、news stands、thrifty stores(中古品屋)にもよく通いました。筆者が住んでいたHaywardの住宅街より活気があり、戦後の日本の闇市の匂いがして懐かしさも感じさせてくれました。Wilson家の隣近所のAfrican Americansも良い人たちでとても温厚で物静か、我々がつい大声で騒いでいると注意されたこともあります。

それもMrs. Wilsonが学校の教員としてAfrican Americansと普通に接していたからでしょう。筆者にとって、Wilson家の人々は、アメリカの家庭の温かさ、そして、アメリカの常識・慣習・作法を教えてくれた先生です。また、African Americans社会に接する貴重な場を提供してくれました。その5年後Mrs. Wilsonの定年退職を機にFremontに引っ越しましたが、以来、ずっと親しくしています。Jack とDaveは筆者にとって弟のようなもので、Jackは後にHawaiiから来た日系3世のPaulineと結婚しましたが、引き合わせたのは筆者です。それが第129回で述べたJackとPaulineとSusan Gordon(*10)の日本での小話に続きます。

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)

第139回 アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その4)(Jack, Pauline, Mrs. Wilson, Jack, Pauline,筆者夫婦, Dinner party, 1981年12月Wilson家にて)

留学では大学周辺のcommunitiesに住む人々との交流を通して学べることも多いのです。Cal State Haywardがcommuter’s schoolであったことが、そうした交流の機会を増やしてくれました。地域社会はいわば学校の延長、extended schoolと考えた方が良いでしょう。他にも多くの人々との交流がありましたが、筆者のその後の日本での生き方、そして、大学での教授法に多大な影響を与えたことは確かです。

(2020年1月24日記)

 

鈴木佑治先生
慶應義塾大学名誉教授
Yuji Suzuki, Ph.D.
Professor Emeritus, Keio University

 


上記は掲載時の情報です。予めご了承ください。最新情報は関連のWebページよりご確認ください。


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