第163回 言語コミュニケーションを神経学にマッチング(1) – 記号(sign)と感覚処理(sensory processing)

第163回 言語コミュニケーションを神経学にマッチング(1) - 記号(sign)と感覚処理(sensory processing)

 

英語圏主要大学のgeneral education programの科目の一つにIntroduction to Language (and Communication)があります。よく使われるテキストはVictoria Fromkin and Robert Rodman著An Introduction to Language (初版1978)です。そのChapter 1 What is Language?で最初に学ぶのが記号(sign)です。現代言語学(linguistics)、記号学(semiotics)の始祖ソシュール(Ferdinand de Saussure,1859-1913)思想の基本概念と言ってよいでしょう。言語記号(linguistic sign)と非言語記号(nonlinguistic sign)があり、ソシュールは母語フランス語を初めとするロマンス語に基づき言語記号に焦点を当てます。

日常言語はもちろんですが大学生が学ぶ学術用語(academic jargon)も記号です。法律用語(legal jargon)、医療用語(medical jargon)など研究活動の根幹にそれぞれの分野の学術用語があり、用語の定義・解釈を巡り熾烈な論争が繰り広げられます。例えば、「過失」と「故意」という法律用語です。事件が起きると、過失によるものか故意によるものかで争われます。「過失とは行為者の故意が無いことである。過失とは注意すれば行為の発生の結果を予測できたのに、不注意で認識せず注意義務に違反する場合で、故意とは結果の発生を認識した場合」[1]と定義されるようですが、その鍵となる「注意」というもう一つの用語を巡り論争が起きます。医学では、「脳死」(brain death)という用語の定義を巡り、法律も含めた議論が展開されています。記号の重要性を示すと同時に、その解釈での基軸が相対的であるが故に頻繁に齟齬が生じます。なぜでしょう?

答えは記号の構造に隠されています。[2] (言語)記号は、下図のように、音のイメージ(sound image/signifier/シニフィアンsignifiant)と概念(concept/signified/シニフィエsignifié)が、コインのように両面一体に結びついたものです。[3]

 

ソシュールの記号 (The Saussurean Signより)

ソシュールの記号 (The Saussurean Signより)

 

例えば、フランス語のarbre (木)という言語記号は、/arbor/という音のイメージと“arbre”という木のイメージから成ります。

ソシュールの記号の例(seijo.ac.jpより)

ソシュールの記号の例(seijo.ac.jpより)

 

こうした構造を持つ記号の本質的特徴の一つが恣意性(arbitrariness)です。記号の音のイメージ(sound image)と概念(concept)の結びつきには、論理的必然性はなく、慣習により偶然そうなった(conventional)と言うことです。[4] フランス語の“arbre”(木)という言語記号を例にとると、/arbor/という音をもって木の概念を指示するようになったのは、フランス社会の諸慣習と同様、人為的取り決めであったということです。もし、必然であったとするなら、全ての言語において木の概念は同じ音でなければなりません。しかし、そうではありません。よって、日本語では/ki/、英語では/tri:/、フランス語では/arbor/になる訳です。[5]

 

その例外に、自然音に近いオノマトペ(onomatopoeia)が挙げられます。しかし、日本語では「ワンワン」、英語でdogは“bowwow”、同じく、は「ニャー」、 catは“meow”、そして、雄鶏は「コケコッコー」、roosterは“cock-a-doodle-do”と鳴くとされるなど、日本語と英語で大分違います。オノマトペにも記号の恣意性の影響がありそうです。[6]

 

二つ目の特徴として、記号が心理的、または、精神的イメージ(psychic/mental image)であるということです。言語記号においては、物理的な音と物事の結びつきではなく、頭の中で抽象化された音のイメージと物事のイメージの結びつきであるということです。

 

ソシュールは言語を、個人的特徴を残す具体的スピーチとしてのパロール(la parole/speech)、社会的事実(a social fact)として社会全般に共通する、個人的スピーチから抽象された言語体としてのラング(la langue/language)、ヒトの言語を有する能力としてのランガージュ(le langage)に分け、言語学や記号学はラングを対象とすると述べています。ラングは記号の体系であり、精神的/心理的な(mental/psychic)ものなのです。[7] ラングが精神的/心理的実体(mental reality)であるように、それを構成する記号も精神的/心理的実体(mental reality)です。ソシュールのSpeech Circuitの図はそれを物語っています。

 

ソシュールのSpeech Circuitにおける記号

ソシュールのSpeech Circuitにおける記号

 

この図には、言語障害(aphasia)の症例を通して脳の左下前頭回に局在してスピーチの発声(speech articulation)を司る領域Broca areaを発見したPaul Broca(1824-1880) 、そして、左上側頭回後部に局在してスピーチの理解(comprehension)を司るWernicke areaを発見したCarl Wernicke(1848-1905) らの言語障害(aphasia)の研究の影響が多分に見られます。これら脳神経学者は脳の損傷によりスピーチ(speech)における発声と理解の障害を患った患者を扱っています。スピーチはパロールのことで、ソシュールのSpeech-Circuitの図も、ラングは言うに及ばずパロールも含めて言語が精神的実体(mental reality)であることを示しています。現代の神経学がその詳細を埋めてくれます。

 

Elaine N. Marie著Essentials of Human Anatomy and Physiology [8]は、Chapter 7: The Nervous System (Slides 7.1-7.102)で神経系the nervous system)が体の主たる司令塔であり、コミュニケーション・システムで、思考、行為、感情など全てはその結果であると述べています。当然、言語も含まれます。幼児言語と言語障害(Child Language Aphasia and Phonological Universals)の研究を残したRoman Jakobsonがコミュニケーションにおける言語の研究を強調したのもこの為でしょう。コミュニケーションは個体と個対の間のいわゆる対人コミュニケーションと、それぞれの個体内で繰り広げられる体内コミュニケーションがあります。[9] 神経学は体内コミュニケーションにあたる部分です。

 

神経系が体の細胞とで行うコミュニケーション媒体は、敏速で速反応を生じさせる電気インパルス(electrical impulses)です。下図のように、身体中の何百万個の感覚受容器官(sensory receptors)に内外の変化を察知させ、その刺激を感覚インプット(sensory input)として処理し解釈して何をするかを決めます。これを統合(integration)と言います。次に、そして、筋肉・リンパ腺を活性化させて運動アウトプット(motor output)を起こします。

 

The Nervous System’s Functions (Marieb Slide 7.5)

The Nervous System’s Functions (Marieb Slide 7.5)

 

プライマリー(個体内)/セカンダリー(個体間) コミュニケーション(鈴木)

 

神経系は下図のように、中枢神経(the central nervous system)と末梢神経(the peripheral nervous system)で成ります。中枢神経(central nervous system)は脳(brain)と脊髄(spinal cord) で構成されています。末梢神経は中枢神経の外に伸びる神経(脳神経と脊髄神経)で、感覚/求心性(sensory/afferent)と運動/遠心性(motor/efferent)の2種類があります。まず、感覚/求心性の抹消神経は受容器官(sensory receptors) が察知した情報(impulses)を集めて中枢神経に送ります。中枢神経はそれを統合(integration)し、その情報を運動/遠心性(motor/efferent)末梢神経を通して運動器官に送り運動アウトプットを起こします。[10]

 

 Organization of the nervous system (Marieb Slide 7.7)

Organization of the nervous system (Marieb Slide 7.7)

 

記号は末梢神経の感覚受容器官(sensory receptors)の部分による情報(impulses)収集と中枢神経による統合(integration)までの感覚プロセス(sensory processing)に関わります。

D.F. Benson著Neurology of Thinking(思考の神経学)[11] の3章The Neurology of Sensory Disordersは、この感覚プロセス(sensory processing)の詳細に触れています。それによると以下の4つのステップを通し、受容した感覚情報を変化・再編成・分類するなどの処理をすると述べています。

 ステップ1受容(reception):特異的感覚受容器官(specific sensory receptors視覚情報なら網膜、聴覚情報なら蝸牛)が外的刺激を受け、その情報を皮質中枢に送る。ステップ2弁別(discrimination):特異的様態受容器官で受容された感覚刺激同士を比較・弁別する(聴覚様態なら音の強弱、痛覚様態なら痛みの程度、視覚様態なら明暗の度合い)。

ステップ3単一様態連合(unimodal association):弁別された感覚刺激をそれまでに処理された同様態の感覚刺激と質量の両面で比較・分析され関連づけられる。この段階で感覚刺激は知覚表象(percepts)として高次プロセスに送られ意識的に認知される。弁別された感覚刺激を過去の体験と連合させる為に記憶を要する。記憶形成に重要なステップである。

ステップ4異種様態/交差様態連合(hetero-modal or cross-modal association)
ステップ3単一様態連合で得られた知覚表象 (percepts)を他の感覚・運動様態からの情報(記憶)に関連づける。感覚(sensation)が意識的に認知されるのはこのステップである。

具体例: ベルが鳴る。感覚刺激は聴覚器官で受容され皮質に送られる(ステップ1受容)。その聴覚刺激はその状況に存在する他の音と区別される(ステップ2弁別)。その弁別された聴覚刺激は過去体験された同質の聴覚刺激と比較され関連づけられる(ステップ3単一様態連合)。知覚表象(percepts)は他の諸様態の情報と比較され初めて意味をもつ(ステップ4異種様態連合)。こうしたプロセスで集められた情報を基に、目覚まし時計を止める、電話を取る、火事の警告とみてビルから全員退去するなどの反応が起こる。Neurology of Thinking (D. F. Benson.1994. Oxford University Press. pp31-32  翻訳・編集 鈴木  

 

これら4つのステップは、第110回第128回第155回で示した筆者試案のコミュニケーション・メカニズムの一部の神経学的基盤を示唆するものと考えます。[12] 言語記号“arbre”を例にすると、一方、聴覚受容器官(蝸牛)で受容された刺激(音)が皮質に送られ(Step1受容)、他の聴覚刺激と弁別され[arbor] [13] (Step 2弁別)、過去の同質の聴覚刺激と比較・関連づけられ聴覚の知覚表象と同定される/arbor/(Step 3単一様態連合)。他方、視覚受容器官(網膜)で受容された刺激が皮質に送られ(Step 1受容)、弁別され(Step 2弁別)、過去の同質の視覚の知覚表象と同定される(Step 3単一様態連合)。聴覚の知覚表象と視覚の知覚表象が結びつけられる(Step 4異種様態連合)。

こうした聴覚刺激プロセスを言語学に当てはめると、Step 1 受容Step 2 弁別は個々の音のレベルで音声学(phonetics)の部分に当たり、Step 3 単一様態連合は音韻論(phonology)にあたることになります。言い換えると、Step 1受容Step 2弁別は音声(phones、例[arbor][14])を扱い、Step 3単一様態連合が音素(phonemes、例 /arbor/)を扱います。同じことが視覚刺激のStep 1受容Step 2弁別Step 3単一様態連合にも言えます。そして、Step 4異種様態連合こそ本題の記号が形成される機能であると言えます。更に言い換えると、Step 1受容Step 2弁別はパロールに属し、Step 3単一様態連合Step 4異種様態連合がラングに属すと言えるでしょう。

冒頭に述べた記号の解釈の相対性とその結果の齟齬を起こす要因は2つあります。第1に、記号を構成する2要素の結びつきが必然的ではなく恣意的なものであること、絶対的ではなく相対的であるが故に曖昧性を残すことです。第2に、上述したような神経機能よる精神的プロセスによる抽象的な精神的実体であることです。

これら2つの記号の特徴は、次のような神経障害の症例も示唆しています。その一つが言語障害(aphasia)で、6種類あるようですが、その内、文法や発声は正常であるものの、単語が(記号)が出てこないという症状の健忘性失語(anomic aphasia)は、Step 4異種様態連合の機能に関係がありそうです。体性感覚では、幻肢現象(phantom limb syndrome)があります。事故などで肢体を失った患者が、それがまだ存在するかのような感覚を持つケースです。要は、感覚刺激の受容が無いのに、失った肢体があるかのように感じてしまうのです。記号は確かに心理的実体(mental reality)ですね。

幻肢現象(De Gruyterより)

ある学問分野の概念を他の学問分野の概念に照らし合わせて考えると新しい問題発見ができます。色々な分野の授業が設置されている教養課程はその機会を提供してくれます。次回は運動(遠心性/efferent)機能も含めて言語コミュニケーションの関係に触れます。

(2022年11月記)

 

[1] 「コトバンク」Expedia 名和鐡郎氏。
[2] ソシュールは著書を残しませんでした。Cours de Linguistique Générale(『一般言語学』)は、彼の講義の受講者のノートに基づき再現されたものです。大学院留学を考えている読者には読んでおきたい一冊です。第3回目の講義者Emile Constantinのノートに基づくLinguistics (1910-1911): (F. de Saussure – Troisieme Cours de Linguistique Generale (1910-1911) をお勧めします。2 フランス語原典と英語対訳です
[3] ソシュール以降の論者は、音のイメージが形態/表現(form/expression)などに、概念を内容/意味(content/meaning)などに変えています。M. McLuhanはmedium(media)とmessageに変えています。
[4] 紀元前5世紀の古代ギリシャから続くテーマ(The Physis-Nomos Controversy)です。PlatoのCratylus(B.C. 360)ではSocratesがHermogenesと議論しています。後にPlatoとAristotleに引き継がれています(An Introduction to General Linguistics. F. Dinneen pp. 75-99) 。
[5]外国語がちんぷんかんぷんに聞こえるのは記号の恣意性によるものです。音と意味が結びつかないからです。
[6]信号 (狼煙、モールス信号、信号機等)は記号の恣意性(曖昧性)を除く為に形態と指示対象を一対一対応にしています。
[7]言語学者Noam Chomskyも、その著Aspects of Theory of Syntax(P.4)で、言語理論(linguistic theories)は精神的/心理的実体 (mental reality) を探求する精神的/心理的(mentalistic)であるべきとしています(“Linguistic theory is mentalistic, since it is concerned with discovering a mental realty.”)。パロールを言語使用(linguistic performance)に、ラングを言語能力(linguistic competence)に言い換え、言語理論は言語能力(linguistic competence)の分析であるべきとしています(“The distinction I am noting here is related to the langue-parole distinction of Saussure.”)。但し、ソシュールはラングに焦点を当てたもののパロール(言語使用)を無視したかどうかは分かりません。ソシュールのSpeech-circuitの図を見ると、スピーチ(パロール)を脳内機能活動の一部としてラングと同様に精神的実体として描いているからです。
[8] 英語圏大学の教養課程で使われている可能性があります。初心者にも分かり易い入門書です。筆者の手元にあるのは第5版ですが、現在販売されているのは12版です。TOEFL iBT テストでは中級レベルのreadingです。
[9] 筆者は体内コミュニケーションをprimary communication、体外コミュニケーションsecondary communicationとしました。
[10] 詳細は次回に述べますが、更に、随意運動(voluntary/somatic)と不随意運動(involuntary/autonomic)があり、後者には交感反応(sympathetic response)と副交感反応(parasympathetic response)があります
[11]脳機能障害の多くの症例を精査し、思考の脳神経的基盤の解明に挑んでいます。思考はコミュニケーションの伝達メディアとメッセージに関わり、言語コミュニケーションの神経学的基盤を探求する上でヒントを与えてくれます。TOEFL iBT テストの上級レベルのreadingとして推薦します。
[12]脳機能障害の多くの症例を精査し、思考の脳神経的基盤の解明に挑んでいます。思考はコミュニケーションの伝達メディアとメッセージに関わり、言語コミュニケーションの神経学的基盤を探求する上でヒントを与えてくれます。TOEFL iBT テストの上級レベルのreadingとして推薦します。

[13]言語学では音声学の音声を[ ]、音韻論の音素を/ /で示します。
[14]注14参照のこと。 

 

鈴木佑治先生
慶應義塾大学名誉教授
Yuji Suzuki, Ph.D.
Professor Emeritus, Keio University

 


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